浮世絵のようなトイレマークを紹介します。
俺は「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」!
私は「四代目岩井半四郎の乳人 重の井」!
発見日:2009年8月29日
提供:M様
浮世絵調のトイレマーク!
今回のトイレマークは、有名な浮世絵が題材です。特に男性の絵なぞはよく見ますね。
繊維が透けて見える紙を使っているようなので、和紙かな?とも思います。和紙に浮世絵を印刷しているんですね。とても”粋”です。背景は、それぞれ青とピンクに分けられていて、絵自体をよく見ずとも、男女がわかります。もちろん背景の色は現代の脚色ですね。
今回はどんな題材でしょうか?では、それぞれを見ていきましょう。
男性のモチーフは?
男性のこの絵は、浮世絵の人物画で一番といっていいくらい有名な絵ではないでしょうか。
こちらの絵は、東洲斎写楽が、歌舞伎「恋女房染分手綱」に取材した作品で、「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」という役者絵になります。三代目大谷鬼次さんが演じた江戸兵衛という役です。
「恋女房染分手綱」は、近松門左衛門の浄瑠璃作品「丹波与作待夜の小室節」を改作したものとなるそう。おおまかなストーリーは以下です。
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丹波国由留木(ゆるぎ)家の家臣・伊達与作は、若殿に命じられ祇園の芸子いろはを身請けするため、家来の一平に命じて国から金三百両を取り寄せます。しかし、同家中の鷲塚八平次は自分の遊興費の穴埋めのために盗賊の頭・江戸兵衛に命じてそれを盗ませます。300両の紛失と同時に与作は、腰元の重の井を妊娠させてしまったため、家を追われました。
与作と、与作のあとを追ってきたいろはは小万という遊女となり、宿場で暮らしていました。金策に困った与作はばくちを打ち、負けてしまいます。与作は、自分を慕ってくる三吉をそそのかし、やってきた大名の金を盗ませようとしました。それが失敗し、三吉は捕えられてしまいます。与作は三吉が、重の井が預けていた自分の子と知り、我が子を罪に落とした恐ろしさに、あとを追って死のうと小万を連れ出します。
しかしそこへ主君の姫君一行が通り、三吉のけなげさに罪を許されます。また300両も与作の兄により助けられ主君へ返却、もとの主君への帰参が叶い、与作は重の井を妻、三吉を跡取り、小万を妾に取り立てたのでした。
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…というお話のようです。
現代の感覚でいうと、小万…重の井…それでいいのか?ってな感じですけども…。仇も討ってハッピーエンドの話だそう。なんだかモヤモヤしますけどね。
女性のモチーフは?
この女性の絵も、上に述べた歌舞伎「恋女房染分手綱」に取材した作品で、『四代目岩井半四郎の乳人重の井』とされます。
四代目岩井半四郎も役者さんの名前ですね。四代目岩井半四郎さんが演じた重の井、ということです。
ちなみに「恋女房染分手綱」は全13段あるそうですが、現代では、彼女が中心になって展開する10段の「重の井子別れ」くらいしか演じられていないそうです。10段の重の井子別れのストーリーは以下。
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由留木(ゆるぎ)家の調姫(しらべひめ)は、まだ幼いながら嫁入りすることになりました。しかし、輿入れの道中「いやじゃ」と駄々をこね始めます。そこで機嫌を取るために、外ですごろく遊びをしていた「自然生(じねんじょ)の三吉」と呼ばれる馬子(馬を引く従者)を呼び寄せます。皆で遊んだのち、調姫は出立する気になりました。
褒美をとらせようと、調姫の乳母である重の井は、三吉と話すうち、三吉は自分が生んだ実子・与之助であることに気づきます。
重の井は昔、調姫の母親である奥方の腰元でしたが、家臣である与作の子を妊娠してしまい、御法度をおかしたとして主君から勘当されます。しかし、重の井の父が切腹して詫び、また、奥方の訴えで同時期に生まれた調姫の乳母になったのでした。その代わり、生まれた与之助は預け、一生会わないとしていたのです。
重の井は揺れますが、母とは名乗らず、泣く泣く三吉を追い返すのでした。
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そんな悲しい役どころではありますが、この絵は毅然としていますね。子のため、主君のために事情を黙っていた重の井のそんな誇り高さを感じる絵です。
なぜこの2人なのか?
この、「恋女房染分手綱」ベースに考えると、与作と重の井、または与作と小万の組み合わせのほうがしっくりきますが、なぜ江戸兵衛と重の井なのでしょう?
と思って、東洲斎写楽の描いた与作を調べてみると、この絵だそうです↓
………。
見たことない……。「二世市川門之助の伊達の与作」とう絵だそうですが…、パっとしない…。
やっぱり、チョイ役でも江戸兵衛の迫力がありますもん。江戸兵衛ありきの人選ですね。江戸兵衛を選んで、対となる女性の絵をつけるとなると、同じ東洲斎写楽の同じ歌舞伎作品内の女性といったら、重の井がベストです。ちなみに小万の絵は見当たりませんでした。
東洲斎写楽とは
この二つの役者絵を手掛けたのは、江戸時代中期の浮世絵師「東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)」です。彼は、約10か月の短い活動期間ののち、忽然と姿を消した、謎の多い絵師なのだそうです。
現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)(1763-1820)ではないかという説が有力のよう。東洲斎の「とうしゅうさい」は、名前の斎藤十をもじったといわれています。
写楽の絵は、江戸兵衛に見られるように、ポーズが大胆でユニーク。彼の絵は国内外で人気となっています。
ほかの浮世絵調のトイレマークは
同じ江戸兵衛をモチーフとしたと思われるマークが以前ありました。
いずれも男性は江戸兵衛がモチーフになっています。江戸兵衛は浮世絵の代名詞ですよね。
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