今回見つけたトイレマークは、ちょんまげが印象的なものでした。
そういえばまげって、毛束が頭頂部に横たえられているタイプもあれば、こうしてピンッと張ったものも、イメージとしてはありますよね。
これらまげの種類って、どういった違いがあるのでしょうか?気になって調べてみました!
どうだ、この天に向かう髷!。
若いわね。まぶしいわ。
発見日:2011年5月3日
「ちょんまげ」の言葉の由来は?
私たちは現在、戦国~江戸時代の男性のまげを総称して「ちょんまげ」と呼んでいます。
しかしもともとの「丁髷(ちょんまげ)」は、数ある「まげ」の中の一種類。
しかも、老いて髪が薄くなり、頭頂部に載せた髷の部分が「ゝ(ちょん)」としか出てないことを揶揄して「ゝ髷(ちょんまげ)」と言ったことが語源だそうです。
ちょんと出たまげ…、現代の我々にも通じるニュアンスですね。ちょっと揶揄しているこの目線が、今の世にまげという奇妙な髪型全体を総称した理由かもしれませんね。
歌川国芳「田家茶話六老之図」より(国会デジタルコレクションより)
ちょんまげの理由は?
しかし、冷静に考えると、ちょんまげって、奇妙な髪型です。
一つにくくるのはまだわかるにしても、わざわざ頭頂部をハゲにしていますもんね。
この頭頂部の髪を抜いたり剃ったりしたものは「月代(さかやき)」と呼び、戦国時代、武士がカブトをかぶった時に、頭が蒸れることを避けるためでした。それが武士だけではなく町人、農民にも広まったものです。
そういえば…頭を剃り込んでいたという髪型、中国にもありましたね。「辮髪(べんぱつ)」というラーメンマンのような髪型です。その件については以下のページもご覧ください。↓
これも所説ありますが、頭の蒸れを防ぐためだったとも言われます。そんなに蒸れ回避って重要だったのかしら?
まげはどんな種類がある?
茶筅髷(ちゃせんまげ)
今回のトイレマークのようなタイプのまげは、「茶筅髷(ちゃせんまげ)」と言って、茶道で抹茶をたてるときの道具に似ていることから、この名が付けられています。見たまんまの形で言い得て妙ですね。
この髪型は、安土桃山時代の若者に流行した髪型と言われ、織田信長もこうした髷を結っていたとされています。私たちが現在、物語のキャラクターとして見る織田信長は、たいてい髪の毛を高く結い上げていますよね。これはヒモでぐるぐる巻きにして縛り、先の毛束を出す形です。
信長をはじめ、当時、派手な身なりで反社会的な行動をした「かぶき者」と呼ばれる人々がこの髪型を好んだそうです。今でいうパンクですね。
もともとは青少年の髪型なので、頭頂部を剃る「月代(さかやき)」がなかったり、少なかったりしたそうですが、その後月代を剃るものも出てきたとか。それが、このバカ殿様のような頭ですね。この奇をてらった滑稽さがバカ殿様と通じるものが…?
こんな茶筅髷ですが、江戸時代にはもうあまり見られなくなっていたよう。
私たちは江戸時代のお殿様がこの髪型をしていたと思いがちですが、実際はそうではなかったようです。
銀杏髷(いちょうまげ)(大銀杏・小銀杏)
銀杏頭は、江戸時代の男性の一般的な髪型。頭の上の毛束をイチョウの形に広げています。
束の部分を大きく開いたのが大銀杏といい、武士が結いました。一方、毛束を小さく開いたのが小銀杏といい、町人の髪型となります。
現代もお相撲さんが結い上げる髪型として残っています。
本多髷(ほんだまげ)
本多髷は、江戸時代に流行した髪型。耳のサイドの髪が張っているのが特徴です。粋な髪型として遊び人や若旦那などに人気を博しました。兄様本多・疫病本多・金魚本多など、そのなかでも細部に種類分けされています。
時代劇「遠山の金さん」も、「遊び人の金さん」の時は耳の横の左右がせり出した本多髷をしているんですが、お白洲の裁きのシーンではサイドなどはぴっちりと結い上げた大銀杏をしているんですよ!大銀杏で立派な身なりなのに、刺青が入っているというこの違和感が一層金さんの存在の特殊性を引き立てますね!
総髪
総髪とは「月代(さかやき)」を作らず、髪をすべてひっつめて結ぶかまげにしていた髪型です。
室町時代には男性の一般的な髪型でした。戦国時代に月代が広まったのちも、神官や学者は、戦闘には関わらないということから頭を剃らず、「総髪」にしていました。
その後、幕末の頃になると思想家としてのプライドから「勤皇派」などの坂本龍馬や新選組の面々がこの髪型にしています。
このトイレマークについて!
改めてこのトイレマークを見てみましょう。男性は、茶筅髷に、肩の張った裃(かみしも)を着た武士の服装をしています。一方、女性は既婚女性がする丸髷っぽいので、隣にいるのはその妻?ではないかと思われます。
ということで、これはお殿様か…と落ち着きそうですが、しかし、このトイレマークのあった「通潤橋」は、あまりお殿様が関係ない場所でもあります。通潤橋は、村の庄屋が中心になって作ったものです。
もっといえば、通潤橋の架かった江戸時代にはこの茶筅髷はあまりなかったわけですが…。
なので、このトイレマークは、大雑把に江戸時代…というイメージから作られたトイレマークなのかな?と思いました。
通潤橋(つうじゅんきょう)について!
ちなみに…このトイレマークのあった通潤橋は、熊本県上益城郡山都町にある石橋です。江戸時代に架けられたもので、国の重要文化財に指定されています。この橋は、水利に恵まれなかった白糸台地へ水を運ぶ水路橋で、サイフォンの原理を使っています。
白糸台地は周囲を川に囲まれていますが、その川は台地よりも下の方の谷を流れており、水を引くことが困難でした。そこで地元の庄屋・布田保之助が、橋を架け、上流から水を引くことを計画、種山石工に依頼し、資金を駆けずり回って集めました。その中には肥後細川藩の資金も借りたそうです。
嘉永7年(1854年)に石橋は無事完成、その後石工の一人橋本勘五郎は肥後藩により苗字帯刀を許され、明治になってからは政府の招聘で万世橋、浅草橋、江戸橋、京橋を造りました。
通潤橋の特徴として、橋の真ん中部分に穴が開けられ、水を放つことができるようになっています。これは、水路にたまった石などを除く目的で作られたものだそうですが、近年は観光放水でこの姿を見ることができます。2016年の熊本地震で橋は被災し修復しておりましたが、2020年にまた復活しました。熊本にお寄りの際にはぜひご覧を~。
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