家康の六男・松平忠輝と妻・五郎八(いろは)姫モデルのトイレマーク?‐No.806

トイレマーク ――歴史ものアート

高田城址のトイレマークに描かれた人物について考察します。

俺は松平忠輝かなあ

私は五郎八姫かしら

発見場所:新潟県上越市 「高田公園」
発見日:2014年4月12日
提供:Iwashi様
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武士の装いの壁画トイレマーク!

 

トイレマーク

今回見つけたトイレマークは、越後の高田城址公園にあったものだそうです。こちらは高田城の跡地にある公園で、時期になると桜や蓮が美しく咲き誇る場所なのだそうです。

高田城(写真AC)

この高田城のお殿様といえば、前回検討した通り、「松平忠輝」だと思われます。この高田城址は城主がしょっちゅう変わっていたようで、イメージできる人物といったらこの家康の六男である「松平忠輝」ほかに見当たりません。

同じ公園内にあったトイレマークはこちら↓。

ちょんまげと垂髪による男女の頭部だけのトイレマーク!‐No.805
ちょんまげ頭部のトイレマークを紹介します。

ここ上越市のホームページでも「松平忠輝&五郎八姫」のイラストを配布するなどプッシュしていますし。↓

ただ、この松平忠輝という武将は、家康の六男でありながら波乱万丈の人生だったようです。どんな人物だったのか…?来歴を解説します。

松平忠輝と五郎八(いろは)姫はどんな人?

(Wikipediaより)

 

松平忠輝(1592-1683)は、徳川家康の六男として生まれ、幼名を辰千代といいます。母は茶阿の局といい、もともと鋳物師の妻だったのが美しい人だったため横恋慕した代官に夫を殺され、それを鷹狩りに来ていた家康に直訴したことがきっかけで家康の側室となりました。

その後、忠輝は生まれたのですが、母親の身分が低かったのと、忠輝の顔が不細工だった、というところから家康に疎まれます。一説には当時忌み嫌われていた双子だったから、という噂もあります。そのため、捨て子の風習で家臣に預けられ、養育されます。一方で同母弟の松千代は、生後間もなく長沢松平家の跡継ぎになるという好待遇。しかし6歳で亡くなったため、忠輝は、弟の跡を継ぐという異例の形で長沢松平家の家督を継ぎます。その後、少しずつ所領も増やしますが、家康とは不仲のままでした。

1606年には伊達政宗の娘の五郎八(いろは)姫と結婚します。五郎八でいろはと読むとは面白いですが、これは伊達政宗が本妻との初子に男名しか考えなかったからと言われます。子こそできなかったものの二人は仲睦まじく、また、舅の伊達政宗ともうまくやっていたようです。1610年には越後高田藩を任され、1614年には現在の場所に高田城を築城、移りました。この高田城は、舅の伊達政宗が指揮を執って建造されたものでした。

しかし、家臣を手打ちにしたであるとか素行が悪いという噂がつきまとい、家康らは忠輝をますます冷遇します。1614年の大坂冬の陣では江戸留守役を言い渡され、1615年の大阪夏の陣では到着が遅れたことと、それに伴い兄で総大将である秀忠の家臣と言い争いになり殺したことで、家康は忠輝本人との対面を禁じることとなったのでした。翌1615年に家康が死去する際、ほかの兄弟は呼び寄せても忠輝だけは拝謁を許しませんでした。跡を継いだ兄の秀忠は忠輝に改易を命じ、流罪となります。この時に妻の五郎八姫とは離縁。その後、忠輝は伊勢や飛騨、信濃など山深い地で過ごし、92歳で人生の幕を閉じたのでした。

 

…という、家康の息子でありながら日陰の人生だったようです。

歴史書の記述の通り、本人の素行が悪かった、という見方もできますが、当時の歴史書なんて勝者のいいように書くのが常であるので、これにはウラがあったのでは、とみる説や作品も数多くあります。一説には、妻の五郎八姫がキリシタンであったため、とか、外国貿易と縁が深かったから、とか、伊達政宗と手を組んでクーデターの噂があったから、とか、自分の地位を危ぶんだ秀忠による画策、などという理由もあるようです。

ちなみに、忠輝の死後300年たった1984年、忠輝の菩提寺の申し出によって、徳川宗家に赦免されたという経緯があるそうです。

う~む…本当はどんな人物だったのでしょう?その歴史に描かれていないウラに想像を巡らせると、ロマンがありますね。戦国ロマンです。この忠輝をヒーローにして描いた隆慶一郎さんによる歴史小説もあります。

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それをあの横山光輝さんが漫画にしたり…

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宝塚で「野風の笛」という演劇になったりしています。

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「野風の笛」とは、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた伝説の笛。天下人の象徴でもある笛を、家康はこの忠輝に送ったとされており、この笛は現在、長野県諏訪市の貞松院で保存されています。そのため、本当は家康とは不仲だったのではなく、疎んじたのは嫉妬深い秀忠から守るためのパフォーマンスだったのでは、という見方もあります。このようなエピソードがあるので、いろいろと深読みできてしまうんでしょうね。

 

このトイレマークは…

 

ちなみに、このトイレマークの元になった絵柄は何だろう?と思ったのがわかりませんでした。

現在に残っている忠輝&五郎八姫の画像と見比べてみると…

 

似ていると言われればそんな気もするけど…。うーむ…。

そもそも江戸時代の初期頃はまだ、女性は髪をそんなに上げていなかったと思われるので、この絵は本当に元が忠輝・五郎八姫を指すかはわかりません。また、男性のすそを踏むほど長い「長袴」は、殿中での揉め事を防ぐため、大名など高位の武家には謁見の際などに義務付けられていたよう。それが江戸時代からではあったようなんですが、具体的にいつからかはまだわかりませんでした。

まあ…上越市の忠輝プッシュを考えて、忠輝と思いたい…です。根拠はないです。すみません。

高田城、ライトアップも綺麗みたいですね。

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