坂本龍馬と思われるトイレマークを紹介します。
俺は龍馬だ!
私はたぶん妻…
発見日:2015年1月4日
提供:KT様
坂本龍馬?なトイレマーク
今回のトイレマークは、形が特徴的。
男性は袴姿だけど頭はちょんまげじゃないみたい…むしろ天パがかっています。
天パで袴といえば…そう、坂本龍馬ですね!
天パで袴というこんなキャラ立ちした人物って他にないと思うので、龍馬と言っていいと思います。
…ということは、こちらの女性は…妻のおりょう?
でも、おりょうってこの地に何かゆかりがあったっけ?…なんて考えてしまいます。
”この地”とは、広島県福山市の「鞆の浦」という港町です。近年では、宮崎駿監督が、「崖の上のポニョ」の構想を練った地としても有名です。
歴史好きの方はピンときたかもしれませんね。そう、あの事件が起きた近くです。
鞆の浦と龍馬の関係は?
幕末の1867年(慶応3年)、龍馬ら率いる海援隊が借り受けた船「いろは丸」は鞆の浦の沖合で紀州藩の軍艦・明光丸と衝突、いろは丸は大破し積み荷ともども沈没するという事件が起こりました。
このとき死者は出なかったものの、龍馬は衝突相手の紀州藩にミニエー銃400丁など銃火器や金塊などをたくさん積んでいたと主張、賠償請求などの折衝を4日間鞆の浦で行ったとされます。結果、龍馬は多額の賠償金を得ましたが、現代になって、このあたりの海底調査をしたところ、いろは丸の残骸だけで銃などは見つかってないため、積み荷は龍馬のはったりだったと言われています。
…ということで、鞆の浦は龍馬のいろは丸事件の舞台ということで、ゆかりの地でした!NHK大河「龍馬伝」が2010年だったので、その前後にこの公衆トイレは建てられたんじゃないかと思います。
女性は?やっぱりおりょう?
男性が龍馬となると、女性は妻の「おりょう」だろうと思いますよね。でも、おりょうは鞆の浦にいなかったような…?
おりょうの生涯を調べてみると…。
おりょうと呼ばれる女性・楢崎龍は京都で皇族の侍医をしていた父のもとに生まれました。幼い頃は裕福に育ちますが、安政の大獄で父は投獄され、その後死去、楢崎家は困窮します。おりょうは旅館へ働きに出るようになり、1964年頃龍馬と出会い、祝言を上げたそうです。
1866年に寺田屋事件が起こり、風呂に入っていたおりょうが裸にのまま危険を知らせたため窮地を脱したのは有名な話。その後、二人は薩摩へ新婚旅行に訪れます。
実は、その訪れた先の塩浸温泉のトイレマークも龍馬でした。龍馬の訪れた場所は観光地になりますね~!
しかし、塩浸温泉は新婚旅行なので、女性マークはおりょうとみて間違いありませんが、今回の鞆の浦はどうでしょう。
1866年の薩摩旅行後、二人は長崎へ向かい、おりょうは長崎の知人の家に預けられた後、1867年に海援隊は下関に拠点を置き、おりょうも実妹とこちらで過ごすようになります。この頃、いろは丸事件が起き、おりょうは下関にいましたが、龍馬はお龍へいろは丸事件の経過報告とともに彼女を気遣う手紙を送っているそうで、これが現存する唯一の二人の手紙だそう。
その後、下関で二人はあったのち龍馬はまた出立、1967年末、近江屋にて龍馬は暗殺されてしまいました。
…という流れだそう。
鞆の浦におりょうは来ていないけれど、龍馬からのラブレターは届いていた、という感じですね。…であれば、やっぱり女性マークはおりょうさんの可能性が高いんじゃないかと思います。離れていても、文字通りその姿を近くに感じていた、という雰囲気ですかね?
そう考えると、このトイレマークを見ているとなんだか照れちゃいますね。おりょうさんが後ろ向きっぽいのも、その場にはいないけど存在感、そういうことでしょうか?(いや単に見返り美人ということなのかも?)
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